「娘の育成理念とインテリア」
「その家族が持っている貴重品、文化的な資産は、寝室に飾りなさい」と、かのインテリアデザイナーは言う。宝飾品や絵画というのは応接間に飾るよりは、寝室にあってこそ生きると考えている。オシャレも宝飾品も日常に身につけてこそ自分のものになる。特別な時にだけ飾り、身に着けて後はしまい込むのでは、いつまでたっても借り物でしかない。宝石も寝室に飾るからこそ自分の持ち物になる、というのが彼女の持論。自身も自分の寝室を飾っている。
彼女は、最近こだわっているシルバーのアクセサリーを寝室の壁に飾る。内壁の窪みにしっとりとした色調の額縁を貼り、そこにお気に入りの銀製品を飾り、スポットライトを当てて引き立てている。彼女によると、金ではいけないのは家庭の飾りとしては輝きが強すぎるから。店舗のディスプレイなら金でも宝石でもいいのだが、家庭のインテリアとして強すぎる。家庭では下品な印象を与える危険性があり、華美になり過ぎない配慮が必要だという。センスを人に押しつけるのは、知性とはほど遠い。嫌味に感じさせないのが、センスのセンスたる由縁。上品とはそういうことだ。
彼女の部屋には高価なインテリア家具が多い。職業柄で多少は安く手にはいるのだろうが、それにしてもソファひとつでウン百万円もするものもざらというから、さすがオランダ貴族の末裔でもあり、インテリアデザイナーの面目躍如というところ。それでいてギラギラした高級感ではなく、しっとりした雰囲気を醸し出して落ち着ける部屋作りをしているのは、さすがプロフェッショナルである。
という彼女は、部屋中を子供に汚されて日々嘆いている。高級なシルバーアクセサリーと落書きが同居するこのギャップ、矛盾が彼女の魅力なのだ。数年前に亭主との離婚が成立して、幼稚園の娘との二人暮らし。娘と日常生活をエンジョイしながら、暮らしそのものを設計している。
とはいえ幼稚園児に空間美学などが理解できるはずもなく、クリムトやアイオーのリトグラフにも園児は独自の芸術をプラスしがち。壁のクレヨンの跡は言うに及ばず、食事をこぼしてじゅうたんはボロボロ、掃除が毎日の重労働である。しかしそのことで娘を叱ることは絶対にしない。娘の創造性、独創性、感受性を減退させたくないから、部屋を汚すことをけして叱らない。それについての彼女の哲学はこうだ。『娘が落書きをしたり部屋を汚すのが趣味なら、私が部屋を飾るのも趣味に他ならないの。個と個の好みの違いなのだから、娘の好みを規制する権利は私にはないわ』。
娘を育てる義務はあっても、別人格である娘の才能を削る権利は、神ではない人間にはない。ましてまだ大人の価値観を理解できない園児に大人の理屈を押しつける方こそ間違い。娘をこよなく愛し、しっかりした大人に育てたいと願う大人ならではの対処である。抱き抱えて甘やかすだけが愛情ではなく、長いスパンで賢い人間に成長させることが親としての真の愛情なのだと確信している。公共の場での子供の振る舞いに無神経な、学校の成績だけに窮した親にならないように、と娘を慈しんでいる。
それより重要なことは、正義感である。たとえ自分がそうしたくても、自分の中での正義感(幼稚園児にも正義感はある。もちろん幼稚園の知能レベルだが、それが当り前なのだ。大人の価値観や見栄を幼稚園児が理解できるはずがないことを大人はつい忘れがちになる。幼稚園児が持っていなければいけない倫理感)に照らして、正しい行動をすることを教えるべきなのだ。そこからは逃げないことを教え、躾ることが重要なのだ、と彼女は言う。それが信頼される大人になる第一歩だと信じているが、「そう考えない母親が多くてね」と彼女は苦笑する。人間を差別するつもりはないし、娘にもそういうことを感じさせたくはないのだが、あまりに低次元な周囲の意識を嘆いている。
彼女はかなりのグルメで、食事にもよくつきあわされるが、そのグルメ知識に対応できる女性はまずいない。そして美味しい料理を口一杯にほおばりながら、「ねェねェ。この間、うちの娘がね〜」と日常生活のあれこれ、娘の行状のあれこれを、それは楽しそうに話しかけてくるのである。