「和服の美とアクセサリー」
親戚の知人に、和服の着こなしの美しい女性がいる。とはいえ着付け教室に通ったこともなければ、両親や親類縁者、友人に着物の着付けを自慢する人もいない。しかも和服の着こなしは成人してから身に付けたというから、それほど長い着物の蓄積を持っているわけでもない。しかし実に美しく着こなす。日本舞踊を長い間習った名取りといわれても納得できるし、さぞや著名な先生のハイクラスな弟子だったと想像できそうな品のある着こなしをする。美人ということもあるが、顔を見なくともその人だとわかるような似合いようだ。しかし踊りはディスコや盆踊り以外はできないらしい。
こういう品のいい、知性のある女性を最近は見かけなくなった。即物的というのか幼稚なのか、金銭や身長でしか物ごとを判断できない若い娘が増えてみると、この和服を着こなす女性の美しさがより際立つようになる。周囲と同じようなファッションをする女性を嫌っているし、悩みはあるにしても自我をしっかり持っている女性なのだ。
あまり頭を使おうとしない娘の考える幸せが、幸せの方向を向いていることは少ない。援助交際で得られるものなど、たかが知れている。しかも得るものより危険の方が大きいのでは論理性の欠如でしかないことを、顔の黒い、ルーズソックスの娘たちはこの女性からよく習うがいい。
専門家が見れば一目でわかるはずだが、紬だの絽などというそれほど高い反物を持っているわけではない。家にもそれほどの資産があるわけでもないから、その着ている反物は著名な芸術家の手になる超レアな高額品ではないにしろ、真面目な職人が真面目に取り組んだ品物ということが手に取るようにわかり、着る女性の人柄を良く表している。高額ではないが、品のいいデザインというか落ち着いた柄のものばかりをそれなりに持っていて、状況によって着こなしている。金に飽かせた着付けや着こなしをしないというところも、彼女が周囲から好意的に受け止められている一因でもある。
その知性ある彼女のオシャレ哲学。落ち着いた口調で、女性にしては低い、しっとりとした声で語った。
「日本で生まれ育った女性なら、ドレスやブラウスに凝るよりも和服の着こなしを身に付ける方がオシャレセンスを磨くのに適しているはずよ。学校の制服の延長のようなファッションをしたところで、校則で縛られ、スカートの丈や下着の色まで先生に監視されていた中学時代と同じような思いをして、楽しいのかしら。学生服のかわいい学校を選び、会社のユニフォームをどれほど自由に選べたとしても、それを制服として着る以上は、もうそこに自由な精神がないと思うの。自分でファッションを選んでいる時の楽しさは失われているのではないかしら?
和服ならもっと自由なファッションを楽しめるし、なにより日本人と日本の風土や慣習が長い時間をかけて蓄積してきた和服の美しさは、なにものにも代え難いわ。いつでも、どんなときでも、どこへ行っても、それこそ世界のどこへ行っても注目され、喜ばれる服装なんて、和服以外にあり得ないわね。
それに、和服のオシャレだって難しく考えることはないのよ。帯と生地や柄、羽織との組み合わせは、スカートやシャツ、コートとのコーディネートと同じ考え方でいいわ。和服にブーケやアクセサリーを着ける必要がないのは、帯〆というアクセントがあるからなの。ハンドバックの代わりに、袱紗という超すぐれた小物入れもあることだし…」
彼女は最近まではアクセサリー類をまるでしてこなかった。和服には帯〆というアクセサリーがあるから、金銀や宝石という西洋的なアクセサリーは不要という考えで。しかし、最近は彼女の価値観にも変化を生じてきた。
それが婚約者の存在だ。ただし彼女が変わったのは彼のせいではない。貧乏学者の卵、インターン生の彼と知り合った彼女は彼とデートを重ねるにつけ、貧乏学生の服装が気になりだしたのだ。正確に言えば、彼の服装に対する周囲の認識が気になるのだ。しっかりした知性や倫理観を持っている若い学者をもその服装でしか判断しない周囲に対して、宝飾品を持たせることで認識を変えたいと考えたのだ。銀のブレスレットをさせることで贅沢ではなくとも貧相には見られないことに気づき、彼を変身させた。そして彼女もそれに併せて自分を変えていったのだ、銀と共に——。銀製品が、彼女の人生に輝きを増すことに気づいた。